
10月1日、アブダビ(アラブ首長国連邦)で行われたUNESCO(United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization=国際連合教育科学文化機関)無形文化遺産保護に関する第4回政府間委員会(開催期間:2009年9月28日~10月2日)において、ベトナムのクアンホとカーチューが、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載されると決議されました。すでに、これまで「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」を受けた2件、「宮廷音楽ニャーニャック(2003年)」、「ゴングの文化的空間(2005年)」に加え、ベトナムは無形文化遺産が合計4件になりました。
今回は専門家の間でその芸術性を高く評価されながらも、継承者の高齢化に伴い今も存続の危機にあるカーチューの魅力に迫ります。
語るように歌う女性の声、澄んだ木の音のリズム、ゆったりとしたメロディの弦、囃すように時折聞こえる太鼓の音・・。ベトナムの伝統楽器と女性歌手が奏でる歌は、どこか日本の民謡にも似た物悲しさを漂わせます。
カーチュー(Ca Tru)は、ダオヌオン(Dao Nuong=歌手)、ダンダイ(Dan Day=弦楽器)、チョンチャウ(Trong Chau=太鼓)のトリオで構成されるベトナムの伝統音楽で、起源を11世紀李朝に遡ると言われていますが、文献にカーチューという言葉が登場するのは15世紀黎朝の時代に入ってからのことで、詳しい起源、発祥地などについてはよくわかっていません。タンロンカーチュー劇場の資料によれば、15世紀以前にはまだカーチューという呼び名はなく、ハットアーダオ(HatADao)と呼ばれていたそうです。「ハット」はベトナム語で歌を意味しますが、「アーダオ」は現在のダオヌオン、つまり女性歌手をこう呼んでいたところから付けられました。アーダオという名の語源は、李朝の時代に王にかわいがられた歌や踊りの上手な少女の名前ダオティ(Dao Thi)に由来するといわれています。
亀の像の甲羅に刻まれるカーチューの歌詞
(Chua Tram, Xa Tien Phuong, Huyen Chuong My,
Hanoi: Dang Hoanh Loan氏所蔵)
15世紀から19世紀の間、カーチューは、村の集会所(Dinh)や神社(Den)、廟(Mieu)または、歌館や資産家・知識人の家、宮殿などで記念日や祭事に催されていました。カーチューが村の集会所や神社他・宮殿等で歌われるのには、歌詞の内容が祖先や神を称える内容のものが多いことと関係しています。また、カーチューの歌詞は漢字やチューノム(ベトナムの古語)で書かれていたことから、これらを読み理解することができる人というと資産家や知識人に限られていました。
村の集会所でカーチューを聴くのには、チュー(Tru=札のこと)を買わなければなりませんでした。カーチュー(CaTru=歌札)と呼ばれる所以はこのチューから発生しています。チューは竹ででき、それぞれ異なる金額が書かれ、歌を聴いてこれを愛でる場合に褒美として与えたのです。チューに書かれた金額の合計額が、村からダオヌオンに支払われました。客は、役人や儒学者、詩人など身分が高く教養のある人達と50歳以上の村の年配者たちでした。彼らは、ダオヌオンが詩を情緒たっぷりに歌い上げると、素晴らしい、という意味を込めて「トン」と太鼓を一つ打ち、「カック」と太鼓の木の部分を叩いて、チューを銅の盆や鍋に入れ、褒美を出すことを知らせました。この太鼓には決まったルールがなく、どこでどのように叩くかは、チューノムの詩歌を完全に理解する必要があり、教養と、芸術的センスが問われました。今では、カーチューの演奏になくてはならないチョンチャウ(太鼓)も、この頃は、演奏者のものではなく客が持つものでした。チューを買うと同時にチョンチャウを叩く権利が与えられたのです。ダオヌオンは、歌いながらチョンチャウの音を聴き、観客が詩を理解し自身の歌に興じているのかどうかを判断しました。客が盛りあがっているとわかると、ダオヌオンはさらに熱心に歌い、その見事さに、褒美の太鼓の合図があちこちで聞こえる、というように、カーチューとは、ダオヌオンと客とが一体となって作り上げる音楽、文学の双方において大変高尚な芸能であったといえます。
カーチューの名の由来になった札=チュー
ダオヌオンの横で歌を聴く少女
カーチューを歌うダオヌオンは、歌唱力や器量だけでなく、チューノムや詩などの知識が必要とされました。昔は、女性に学問は必要ないとされており、チューノム、漢字が読める女性はダオヌオンぐらいのものでした。ダオヌオンは、ザオフオン(GiaoPhuong)と呼ばれる音楽団で共同生活をし、同じ名字の一族間で幼少のころから訓練を受けました。カーチューを長時間歌うためには特殊な技術を身につけねばならず、ダオヌオンは最低でも6・7年の修業を要しました。また、ダオヌオンの歌に合わせて伴奏をするダンダイ(弦楽器)奏者はケップ(Kep)と呼ばれ、やはり音楽団の中で共同生活をしていました。ダオヌオンとケップは、妻と夫、妹と兄の関係であることが多く、村でカーチューを催すと聞くと、演奏の権利を村から買い、客から報償をもらって生活をしていました。どの村でいつどんな行事でどのダオヌオンが歌うのかは、すべてこの音楽団が決めていました。厳格な集団で、規律を守れず音楽団を追われたダオヌオンは、他の音楽団でも歌わせてもらえないほどでした。
カーチューはその多くが村のディンなどで歌われたことから、北部を中心に幅広くその奏者が分布しており、この点が同時に無形文化遺産に登録されたクアンホと著しく異なります。また、ベトナムの他の芸能の大半が、農業などを兼業しているのに対し、カーチューは専業の音楽家として、演奏でのみ生計を立てていました。
カーチューが転期を迎えるのは、20世紀、フランス統治時代のことです。ハノイは商業が栄え、成功した商人達が莫大な富を手にし、彼らのための娯楽施設が次々に建てられました。その中の一つがカーチューを聴かせるニャーハットコーダオ(Nha Hat Co Dao又はNha HaCo Dau)でした。彼らは、ハノイから近郊の村へダオヌオン(※この頃はダオヌオンをコーダオと呼ぶようになっていました)を探しに行き、ここでカーチューを歌わせました。しかし、娯楽文化の発達とともに、健全なニャーハットコーダオとは別に、お酒を出すニャーハットコーダオジオウ(Nha Hat Co Dao Ruou又はNha Hat Co Dau Ruou)という施設が作られるようになり、茶・酒の他、客の肩を揉むなどのサービスをし、客との間で売春の交渉が行われるようになりました。そのため、カーチューが持っていた高尚なイメージは瞬く間に失われ、代わりに、人々の間にカーチューに対する偏見が広がっていきました。フランスが撤退した1945年、ニャーハットコーダオジオウは営業を禁止されましたが、その後も彼らに対する偏見は根強く残り、ダオヌオン(=コーダオ)は、迫害を恐れ、長らく自分の身分を明かさず暮さなければなりませんでした。
同じ無形文化遺産のクアンホが、早くから保護活動を開始したのに対し、カーチューは、偏見から長らく公の場で歌われることはなく、90年代になってようやく、その価値が徐々に見直されるようになりました。しかし、すでに伝統の技を受け継ぐダオヌオンは高齢化が進んでいました。カーチューには楽譜がなく、小さいころから耳で聞いて、その様式を体で覚えるのですが、およそ40年もの間のベトナムにおけるカーチュー不在の歴史が、この複雑で高貴な伝統芸能の復活と普及を非常に難しいものにしています。
現在、全国には14の都市に愛好家による61のカーチュークラブがあり活動が続けられています。2007年の調査では、ベトナム全土に伝統の技を受け継ぐダオヌオンが21名いると報告されていましたが、2009年の調査ではすでに他界し、わずか十数名を数えるのみとなりました。緊急保護を急がれながらも、継承者の高齢化と高度な技術を要することから、すでに73ものカーチューの様式が消滅し、99あったといわれる様式のうち、今日ではわずか26しか再現できないといわれています。しかしながら、この26の様式の存続すら危うく、決してカーチューの未来は明るいとはいえません。
89歳のダオヌオン Nguyen Thi Sinhさん
(於Bich Cau Dao Quan2009年10月25日撮影)
■カーチューの鑑賞できるところ
Thang Long Ca Tru Theater
住所:25 Tong Dan, Hoan Kiem Dist., Hanoi
電話:
Web:www.thanglongcatrutheatre.com
公演時間:毎日16:45 18:00 19:15の3回(各回45分)
入場料:3万5000ドン
※革命博物館の中にあり、英語の解説付き。タンロンカーチュークラブが演奏。楽器の展示もあり。
Bich Cau Dao Quan(Hanoi Ca Tru Club)
住所:14 Cat Linh, Dong Da Dist., Hanoi
公演時間:毎月第2・4日曜日9:00~12:00頃
入場料:無料
※お礼に2万~3万ドン置いておくか、CDを買うとよい※カーチューの学位を持つ Bach Vanさんがダオヌオンを務めるHanoi Ca Tru Clubの演奏を見学できる。ベトナム語のみ。
■カーチューの楽器と演奏者
ダオヌオンとファック(Phach)

ダオヌオンが歌いながら叩く木製のカスタネット。床に置いて使う。左右の手に持った棒ズイファック(Dui Phach)とラーファック(La Phach)で叩いて音を出す。ズイファックは陽、ラーファックは陰を表すという。叩き方によって高低などが変わり、曲によってリズムも変わる。ダオヌオンは、呼吸法に特徴があり、口を大きく開けず、語るように歌う。
ケップとダンダイ

弦楽器。台形の形をした部分は裏側が空洞になっている。3弦。長さ160~165㎝。リムの木が使われることもある。昔は、ダオヌオンとケップは妻と夫、妹と兄の関係であった。
クアンビエンカムチャウ(QuanVien Cam Chau)とチョンチャウ

水牛や牛の皮を張った小さな太鼓。太鼓は、他の音楽で使われる太鼓よりやや長めのバチで叩く。バチは他の太鼓と区別して特別にゾイチャウ(Roi Chau)と呼ばれる。もとは、客が叩いた。熟練でないと扱えない。